はじめに 先ず数字から入りたい。日本で貿易を行っている企業の数は、11、604社である。 ほとんどが比較的小規模の貿易業者であるが、そのうち上位の9社のシェアが非常に高 く、この9社で日本の輸出の37%、輸入の65%をハンドルしている(1991)。 一般的にその9社、その中でも上位6社が、SOGO SHOSHAと呼ばれている。SOGO SHOSHA はそのまま英語として通用する。"ogoとはgeneral、shoshaとは Trading Company を 意味する。よって SOGO SHOSHA とは"General Trading Company"と言うことになる。 なぜわざわざ「総合」という言葉を付け加えるかと言うと、扱い品目が多岐にわたると 言う意味と、総合商社が提供する機能(サービス)にいろいろあると言う二つの意味か ら「総合」という形容詞が付けられている。 9社の売上高の合計は年間119兆円(約一兆ドル)にもなる。ちなみに日本のGNPは 年間4兆ドル程度である。外国では(メーカーの直接貿易、貿易業者の専門化の関係で) 貿易業者の規模がこのように大きくなることはない。 舶ト国では総合商社が日本経済の躍進の秘密であるとの見方があるとともに、逆 に総合商社と日本企業の密接な系列関係が日本市場の閉鎖性の原因と考える人もいる。 前者はともかく後の方は、間違った議論である。しかし、よきにつけ悪きにつけ、総合 商社は必要以上に怪物的な存在と見なされている嫌いがある。 実態はそんなに不思議な企業ではないが、活動の幅が広く、多くの機能があるので、外 部から解りにくいことがあるのかも知れない。 人間と同じく企業も過去の延長線上にあり、歴史的に見ればよりよく理解できる。 「時間は過ぎ去るのではなく積み重なる」。総合商社の数多くの機能も、その一つ 一つが、それが形成された時代の特別の事情に対応する形で出来上がってきたものであ る。よって今日、多様な総合商社の役割をその時々の時代背景に対応させて振り返るこ とにしたい。 日本経済を取り巻く環境は現時点においても変わりつつある。それに応じて 総合商社の機能と役割もそれに応じて変りつつある。その辺を、今日のわたしのメッセー ジとしてご理解いただければと思う。 時代区分だが、1)最初に19世紀にまでちょっと遡って総合商社の創業期、 2)戦後の復興期を経て55年以降の20年間にわたる日本経済の高度成長期、3)7 3年のオイルショック以降85年までの日本経済の低成長期、4)現在すなわち198 5年のプラザ合意以降と、四つの時代に分けて説明したい。 時代区分(1):総合商社の創業期 ク商社の創業期からはじめたい。どのような時代背景のもとに総合商社というものが産 まれてきたのかを見てみたい。総合商社の起源は江戸末期(19世紀の半ば)に遡る。 その当時、200年にわたる鎖国政策の後、日本は欧米列強により開港を強制された時 期であった。このとき中国貿易に従事していたジャーディン・マディソン商会など主に イギリスの専門商社が日本に支店を開き、日本の貿易を取り仕切った。この時代、日本 の輸出入の9割以上をこれら外国商社が取り仕切った。 <外国商館は日本人商人が貿易手続きに疎いのに乗じ、相当あこぎなこと(乱暴なこと) をしたと伝えられている。また欧米諸国と締結した通商条約も極めて不平等なものであ り、日本は自国の関税の自主決定権すらなく、自国の産業の保護も出来ない状態であっ た。(以後20世紀に入るまで数十年間にわたり、通商面での[半植民地」状態が続 く。) $貿易を外国商社から奪回することをめざし、伝統的な商業金融資本(財閥)が中心と なり、19世紀の後半にかけていくつかの貿易商社が設立されて行く。これが現在の総 合商社の源流である。 当時発展途上国であった日本が欧米諸国と対等に貿易を行うためには強力な専門的貿易 機関の発達が不可欠であったわけである。 このような貿易商社のなかで有名であったものには三井物産がある。設立は1876 年。政府から官営の三池炭坑の払い下げを受け、同炭鉱の石炭の輸出を一手に引受ける ことから貿易をはじめて行く。 また紡績会社を設立し、紡績機械の輸入、綿花の買い付け、製品の輸出を担当する。さ らに流通施設や輸送手段への投資など新しい事業分野への投資を積極的に行ない、自分 を中心とする企業グループをつくっていった。 1910年には、世界に40の海外店を配置し、従業員1700名、日本の輸出入の2 割以上を取り扱う日本最大の貿易商社に成長した。 他方、三菱商事の設立はかなり遅れて1918年である。概ね三井物産と同じよう な発展過程をたどるが、重化学工業の分野での取り引きを重点的に伸ばして行ったのが 特徴である。 ちなみに三井、三菱とよく対比される住友財閥についてであるが、住友財閥自体は15 90年にまで遡るものの住友は一貫して産業資本としての性格が強く、住友での総合商 社の設立は三菱よりもっと遅れて第2次大戦後にまで持ち越されることになる。終戦後 の大陸の住友事業からの引き上げ者に職を与えるというせっぱ詰まった事情で商事会社 が設立される。 メ以上戦前の歴史を振り返ってみると戦前の総合商社の設立と発展は当時の日本の国家 的目標と密接な関係があったことが解る。 天然資源に乏しく、多くの人口を抱えた貧しい日本が、国民の生活水準を改善しようと 思えば、日本を工業化するしかなかった。工業をやるには資源を輸入する必要がある。 資源はただではないので外貨がいる。外貨はは輸出で稼ぐ以外はない。ということで日 本にとって貿易は死活問題であった。大規模な総合商社はそのような日本経済のニーズ にそって育ってきたものであるといえる。 時代区分(2):総合商社の形成期 2明治以降、経済発展を続けてきた日本も太平洋戦争という悲惨な戦争を引き起こすこ とになる。戦争が終り、財閥系総合商社も占領軍の命令で一旦は解散させられるが50 年代には再び合同する。戦中・戦後の混乱期を経て壊滅状態となった日本経済も195 5年当りには戦前の水準に戻り、再び日本経済はダイナミックな発展を開始する。 嘯サの後の20年間を日本経済の高度成長期と呼ばれるが、年平均9.8%の高い成 長が実現し工業国へと発展してゆく。世界的に見ても注目すべき成長スピードであった。 その原動力は技術革新であり、大衆消費社会の実現であった。その象徴として19 64年の東京オリンピック、東海道新幹線の開通があり。その到達点として68年のGN P世界第二位への躍進がある。 この時代は同時に経済構造の激動期でもあった。総合商社は極めて積極的な事業展 開をおこない活動分野を飛躍的に拡大させた。 1)外国からの技術導入、2)資源開発、3)大衆消費社会への移行という三つのテー マにつき総合商社が果たした役割を見てみたい。 1)外国からの技術導入 この時期の高度成長の牽引役に輸入技術に基づく活発な設備投資がある。戦中戦後の 空白によって日本の技術水準の立ち後れはひどかった。55年以降になるとその技術水 準の落差を埋めるべく外国からの一流技術の導入が広い範囲でおこなわれ工場設備の新 設ラッシュが続いた。 具体例として: 鉄鋼業では:高炉の大型化、LD転炉の導入、ホットストリップミル新設など。エネルギー では:エネルギー革命と呼ばれる石炭エネルギーから石油エネルギーへの転換。石油化 学では、ナイロンなどの合成繊維、プラスティックの企業化の為の巨額の投資がなされ た。 この技術(機械設備)導入に関連し、商社は技術導入の仲介・斡旋役として活動す ることになった。多くの総合商社ではこの頃から技術移転業務の専門セクションを設置 し積極的に技術移転に対応した。また海外有力メーカーの対日販売総代理店として外国 企業の立場から設備、技術の対日売り込みに注力した。 血ツ人的な経験(具体例):デンマークの海底トンネル建設工法の導入で東京湾 の埋め立て現場に日参したこと。フランスの土木技術テルアルメ工法の導入。 商社が技術提携の斡旋をすることで、僅かな仲介手数料が稼げるが、本当 の目的は技術提携により安定的な資材の継続取り引きをアレンジ出来ることにある。こ れはワンショットではなく、何十年と続く。だから一生懸命やった。総合商社の「技術 移転機能」である。 2)資源開発 高度成長期になって日本経済は資源問題という新たな問題に直面する。戦後の 復興期には産業に必要な資源はコマーシャルベースで単純に輸入すればよかった。資源 については買い手市場であったし、日本の産業が必要とする輸入量も少なかったからで ある。 高度成長期となるとそれでは(従来の資源の輸入方法では)とても間に合わなくなっ た。必要量が急増し高度成長期は5年で2ー3倍のペースで資源の輸入量が増えた。ま た国際的に資源ナショナリズムが台頭する。 市場は一転して売り手市場化する。そこで資源の長期かつ安定的確保を図るた め、資源保有国の経済的利益を重視した開発輸入方式が登場する。 開発輸入方式には相手国に資源開発資金を融資し、その生産物で融資金の回収を 図る方式(融資輸入方式)と相手国に投資して自ら事業経営に参加する(開発参加方式) の二通りがある。 いずれにせよ数年の期間を要し、巨額の資金とリスクが付きまとっている。日本の製造 業は積極投資でただでさえ資金がタイトであり、そのため大きな資源開発プロジェクト には資金調達とリスクを分散する意味で企業グループ、ないし同業各社の複数の企業で 参加するケースが一般的になった。その際、総合商社はまとめ役として数多くの資源開 発プロジェクトに参加するようになる。これが総合商社の「オルガナイザー機能」と呼 ばれるものの始まりであった。(オーストラリアの鉄鉱石など) 3)大衆消費社会への移行 -高度成長のおかげで国民の消費生活は格段に向上した。それに伴って産業構造の 変化も生じた。第三次産業の就業構成比は1960年の38.2%から70年には46. 5%、75年には52%と半分以上を占めるまでになった。 経済の重点は素材生産に近い川上から最終消費者に近い川下に着実に移りつつあった。 しかし総合商社の売上高の構成はおおざっぱにいって50ー60%が生産財、2 5%が資本・建設財などの投資財、消費財は10%前後といわれており、商社の住み場 所はどちらかと言えば川上よりである。積極的に総合商社は流通の川上から川下へのイ ンテグレーション(垂直統合化)に意欲がもやされた。 具体例として、ブロイラー・インテグレーションがある。これは総合商社が日本に最 初に導入したシステムであるが、米国でブロイラーの優良品種を育て、孵化したひよこ を日本の契約農家に供給し育てさせる、餌は自社が輸入する配合資料を農家に供給し、 製品(鶏肉と卵)は自社の流通経路で消費者に販売するというシステムである。この分 野での総合商社のシェアは約4割といわれる。おしなべて割高な日本の食料品の中で鶏 肉と卵だけは値段が低位安定している。フライドチキンとオムレツを食べている限り食 費は東京の方がパリより安く済む。総合商社が自慢できる国民生活への貢献の一例であ る。 他にも商社がスーパーマーケットの経営に乗り出すとか、積極的な川下展開が見られた。 総合商社の「ディストリビューション・ネットワーク機能」と呼ぶことが出来る。 高度成長期は日本経済が急速に拡大した時代であった。それにあわせ、総合商社も活 動分野を拡大する政策をとり「総合化」を積極的に推進した。高度成長期で総合商社の 総合化は一応完成したといえる。その意味でこの時期は総合商社の形成時期であった。 時代区分(3)、石油危機以降の低成長時代 1973年の石油危機がもたらした変化はとりわけ大きかった。順調に成長していた 日本経済も1973年に大きな転機を迎える。 原油価格は73年、一挙に4倍に(11.65ドル)なり、さらに81年には、イラン・ イラク戦争で34ドルまで急騰する。 この石油ショック以降、世界経済は(インフレと景気の低迷が同時に進行する)スタグ フレーションに見舞われたが、エネルギーをほとんど中東に依存する日本経済への影響 はとりわけ大きかった。 日本経済は低成長時代へ突入する。(1960年代は年平均で10.7%の成長であっ たが、石油危機以降の10年間、1973ー83、年平均4.0%の成長率に低下した。 この時期の商社の役割を、1)原油ビジネス、2)プラント商談、3)三 国間貿易の三つに関して見ることにしたい。 原油ビジネスと商社 ?まず第一に、石油の確保自体が大問題となった。石油危機以降、世界的な原油 不足の情勢の中で原油供給源を失ったメージャーは日本に対して原油供給のカットとい う厳しい措置をとることになる。日本の石油業界はメージャー・ルートに替る新しい原 油輸入ルートとして産油国との直接取り引きに乗り出す。これをDD原油(Direct Deal Oil) という。 竄オかし民族系石油会社のほとんどは中東に拠点をもっておらず、この原油購入は総 合商社が行うことになる。DD原油は経済協力の見返りとして契約が成立する場合が多く、 経済協力に参加する総合商社が原油購入交渉を行う方が有利だったこともある。 わが国の原油輸入における商社シェアは1965年の10%から81年には38% にまで急増する(それに対し、同期間にメージャーシェアは62%から33%に激減し ている) プラント商談と商社 価格が急騰した石油輸入代金の支払いのために、日本は国際収支の悪化に悩むことに なる。輸入合計に占める鉱物性燃料:の比率も、それまでの1/4程度から一挙に半分 にまで急増する。日本はなんとしても産油国に対する輸出に傾斜しオイルマネーの還流 を図る必要も出てきた。 その解決策がプラント輸出であった。OPECは1974年だけで600億ドルとい うオイルマネーを手にいれるが、このお金を自国の工業化に注ぎ込んだ。日本の中東向 けプラント輸出は一挙に活発化する。 総合商社はこのプラント輸出において、その発端から完結にいたるまで幅広く機 能を発揮することになる。すなわち: 海外ネットワークを通じてのプラント入札情報をいち早く入手する 国際入札への参加企業をコーディネートする。場合によっては外国企業もふくめ た国際コンソーシアムを結成する。 ファイナンス、政府資金の利用を交渉する リスク分散のために輸出保険の手続きを行う。為替のリスクヘッジの手段を講ず る。カントリーリスクの評価を行う アメリカにはベクテル社のようなプラントを一括受注できる強力なエンジニアリ ング会社があるが、日本のエンジニアリング会社の多くは化学会社から分離独立したい わば技術者集団にすぎず、その補完的な役割を総合商社が果たすことになった訳である。 三国間貿易と商社 三国間貿易とは日本以外での取り引き、つまり外国で仕入れて日本以外の別の国で 売る貿易をさすが、70年代から急速に増えた。 9社の全取り引きに占める三国間貿易の割合は:65年:9.4%、70年:12.0 %、73年:16.1%、91年:25.8%。 何故増えたかと言うと: 石油危機以降、伝統的商品中心の総合商社の売り上げが伸び悩んだため、その活路を 外国間取り引きに求めたこと プラント輸出などの見返りに相手国の産品の引き取りを義務付ける取り引き(カウン ターパーチェス)が増加したことなど。 カウンター・パーチェスなどは非常に広い取り扱い商品と海外取引先をもつ総合商社な らではの機能であると言える もっとも品目は石油、穀物、油脂原料、綿花などの国際商品がほとんどであり、工業 製品の三国間貿易はあることはあるがまだまだ少ない。 しかし三国間貿易の増加は総合商社の国際化の象徴でもある。 時代区分(4)、プラザ合意から現在に至るまで 円高がもたらしたもの さてようやく現在に至った。1985年以降を現時点とするが日本経済はまた して大きな構造変化に直面している1985年以降の大幅な為替の切上がり(円高)で ある。背景には70年以降の日本産業のハイテク化の構造変化でエレクトロニックス関 連製品などの輸出が急増し、国際収支は構造的に黒字体質へ変化したこと、それに伴う 国際摩擦がある。1985年、多国間国際協調によって大幅円高誘導が決められ、円は 僅か半年の間に一ドル240円から150円へ切りあがった。 この為替の急激な変化は日本の貿易パターンをも変化させるものであった。明治以来 の日本の貿易パターンは加工貿易といって原材料を国外に求め、日本で加工し、製品を 輸出するというものであったが、そのパターンがなりたたなくなった。需要地に工場進 出し現地生産をするようになる。 そうなると、貿易品目も(輸出品目も)これまでの製品の輸出に替えて部品や中間財の 輸出に変化してくる。 中間材の貿易となれば同一企業内での貿易(企業内貿易)が主体になってくる。企業内 貿易となれば、貿易業者が介入する余地はなくなり、総合商社のビジネスがなくなると いう事態になる。 現に数字で見ても輸出売り上げが総合商社全体売り上げに占めるシェアは大きく低下し てきている。 輸出/売り上げ高シェア(9社):80年:20.2%、85年:18.8%、90年: 12.2% 総合商社の対応 この数字を見ると「総合商社=輸出」というステレオタイプを捨てなければならない事 態となっている。商社側の対応策としてはいろいろあろうが二つほど: :第一に海外での現地流通への介入を強めることである。日本企業の現地生産に伴って 材料や部品の効率的な調達の必要が生じているが、これらが現地企業によって満たされ るとは限らないので日本の総合商社が現地の流通を担当するケースが増えている。 鉄鋼の流通加工センター(コイルセンター)の海外進出がこの例である。コイルセンター とはユーザーの要求に応じて鉄板の切りそろえをして必要な数量を必要な時間に必要な サイズでジャストインタイムに納入する流通加工基地で、60年代に日本において総合 商社が開発したもの。この便利なサービスはアメリカには存在しなかったので日本企業 の現地進出にともない総合商社が現地に数多くの鋼材加工センターを建設することになっ た(最近はアメリカ人も真似をして同じものを作くりはじめた)。 また現地でのデイストリビューターやディーラーへの資本参加など、現地の倉庫業、運 輸業などの物流業への投資も増えている。これが一つの傾向である。 .第二に外国企業との提携関係の強化である。三菱商事のダイムラーベンツとの提 携、三井物産のマクドナルド・ダグラス社との関係、住友商事のフィアットとの関係な どである。また個別のビジネスにおいても、「組む相手は日本企業に拘らない」という 総合商社の姿勢が顕著になってきている。当社の例をみても次のような例がある。 インドネシア向け発電所 住友商事は91年米国のGE社と共同でインドネシアでガスタービン発電所の建設を受注。 建設資金2億ドルは日米の輸出入銀行の協調融資。日本の貿易保険を適用。 タイ向けエチレンプラント 同じく1992年、住友商事は米国のエンジニアリング会社ストーン・アンド・ウェブ スター社と韓国のエンジニアリング会社大林エンジニアリング社と組んで、タイのエチ レンプラントを受注。5億ドル。米国が基本設計、韓国が現地工事を行う。プラント用 機器は米国、韓国、日本から調達する。 ニカラグア向けの米国産肥料(日本政府の無償資金協力案件) 住友商事は90年に日本政府のニカラグアむけのグラント案件をベースに米国の肥料会 社アルカディア社の肥料9300噸をニカラグア政府に納入した。日本の経済協力案件 で外国企業に商売をもっていった例である。 要約すると総合商社の今後の戦略は、1)日本企業の海外進出をサポートしつつ、 2)国際流通分野において新たな基盤を築き、3)自らも多国籍商業資本として外国企 業の製品販売の分野において取り扱いを強化しようというものといえよう。 (おわりに(総合商社の機能についての整理) 以上、総合商社の果たしてきた役割を時代時代で見てきた。多様な役 割があったことが解る。また総合商社の役割・機能は時代時代のニーズに応じて変化して きたことも解っていただけたと思う。 もっとも、良く見るとこの間一貫して変化しなかった総合商社の役割・機 能があったことがわかる。その機能は財・サービスの「トレード」である。需要と供給を世 界的な規模で結び付けるマッチング機能といってよい。この「取り引き(トレード)機 能」は商社の一番大切な中核(コア)機能である。そのコア機能を囲む形で金融機能、 投資機能、オルガナイザー機能などの付帯機能があると整理できる。この付帯機能には 商品毎に極めて多くのバリエーションがあるが、中核は「トレード」機能にある。この 様に考えれば総合商社という存在がよりわかり易くなると思う。 この「トレード」の分野において総合商社は時代時代のニーズに応じて、 極めて敏感に、取扱商品、相手先、地域を変化させてきた。ビジネスのやり方もしかりであ る。変化してきている。 現在、世界経済は古典的な弱肉強食の時代から協調の時代に入ってきている様に見える。 日本の産業にとって国際的な協調関係、経団連の言葉では「共生(シンビオシス)」が 課題になっている。国際的なビジネスの仲介者としての総合商社に期待される所は大き いと思う。 [主要参考文献] 内田吉英「商社」教育社、1991 島田克美「商社」日本経済評論社、1986 杉本昭七「日本貿易読本」東洋経済新報社、1992 補足:最近、一部の米国の研究者から日本の企業集団(系列)が日本の輸入を阻んでい るのではないかとの疑問が出されたことがある。昨年、その議論に対するコメント・反 論を書いた。そのペーパーを入れておいた。もしこの種の議論に興味のある方がおられ れば、若干テクニカルではあるが参照乞う。 |
1992年12月1日火曜日
日本経済の発展と総合商社
1992/12
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